Jul
30
宮城県の被災地にピースポール建立
カテゴリー:ピースポール

昭和29年(1954年)4月から6年間、私は宮城県桃生郡大川村立大川中学校に教師として勤務させていただきました。現在は石巻市に合併されています。海の恵み、山の恵み、田畑も広がつていて、のどかな村でした。東北一の大河北上川の分流の追波川(おっぱがわ)がゆったりと流れ、延々と続く大堤防の上が東西を貫く幹線道路になっていました。町はその内側に出来たのでした。
2011年3月11日、マグニチュード9.0の地震で生じた大津波は、海沿いの二つの部落を壊滅に追い込み、更に大河を逆流して、打口から約5キロの地点で大堤防を破壊し、山にぶつかつた奔流は渦を巻いて中間の地域を呑み込みました。中心市街地は釜谷といい、山と堤防に囲まれていたために津波の襲来に気付かず、住民の四割にあたる百八十九名が犠牲となりました。大川小学校はそこにあり、百八名のうち74名の児童が亡くなりました。教師も12名のうち10名が亡くなっています。中学校は少し離れていましたが、形だけ残り、今年2月で廃校です。その悲惨な状況を知った直後から、私はこの大川地区に「癒しと希望」の光を降ろそうと思い、ピースポールを建てたいと強く願いました。
願いが叶ったのは翌年の秋でした。二〇一二年、古希を迎えた教え子たちの同期会が松島であり、そこに招かれた私は、我が家の庭のピースポールの写真と、「平和の創造」を数冊持参して話をしました。ピースポールが素晴らしいものだということは、みなわかってくれましたが、川の流域全体が地盤沈下して、どのように修復するのかまだ案が固まっていないので、大川小の傍はまだ早いということで、地域の東端にある尾崎(おのさき)の山の中腹に建てることにしました。今は穏やかに凪いでいる広い長面湾(ながつらわん)を見下ろす場所で、外海は大平洋です。54年前の教え子、浜畑吉弘さんの実家の裏山でした。そこに財団の仲間四人で行きました。浜畑家も津波が貫流し屋根と柱だけが残り、ブルーシートで囲って、彼はそこを作業場にしていました。
毎日、何キロも離れた仮設住宅からバイクで通っては裏山を開墾して公園を造っているのでした。これから生まれてくる子供たちの憩いの広場にしたいのだそうです。彼は若い頃、父親と折り合いが悪くて家をとび出し、遠洋のマグロ漁船に乗り、ブラジルのアマゾン流域で20年間開拓の仕事をして帰国し、今は茨城に家族がいるのですが、家督を継いでいてくれた弟を励ますためにも、単身引っ越してきて、去年の秋から故郷の山を一人で切り拓いているのでした。小柄ながら力仕事に慣れている彼は、2メートル余りもあるピースポールを一人で担ぎ、急な山道をひょいひょいと登っていくのでした。その山を取り囲むように60戸もあつた集落はことごとく廃屋で、時折、土木作業をするために往き来する車の他は人の気配は全くなくて、地盤沈下で広がつた海の水がひたひたと打ち寄せる音だけが聞こえ、小春日和の太陽が反射する小波の上には数羽の白鳥がゆったりと羽を休めていました。
「インターナショナルなものにしたい」という彼の要望で、ピースポールは日本語と英語と中国語、そしてスペイン語で表示しました。彼は、あの大川小学校までハイヒールを履いてでも行けるような遊歩道を造りたいとか、公園を桜の名所にしたいとか大きな夢を語ってくれました。70歳の彼は「必ず、後を引き継いでくれる者がいると信じてます」と語っていました。日が暮れても困らないように、家の外には小型の太陽光発電の蓄電盤が置いてありました。あるNPOから寄贈された物でした。帰りに、もう一度仰ぎ見ると、山の中腹に建ったばかりのピースポールが白く輝いていました。二月半ばになって、そのピースポールの周りの薮椿の花が咲きはじめ、彼の実家の庭に一本だけ生き残ってくれていた梅の木の蕾も綻びはじめたといううれしい電話がありました。(東北ピースポール70本プロジェクトの一環として)(瀬戸多鶴子 記)
|AUTHOR:WPPS日本オフィススタッフ|DATE:2013.07.30 10:20|